今回の記事は何を書こうと思い、以前書いたものを見ていて・・・・・
アッ、「知れば知るほど好きになる~」シリーズ
全然更新していないことに気付き
今回は『深水埗』を書くことにしました。
深水埗は九龍半島の西北部に位置し、人口密度の高い地区の一つです。
埗は広東語で埠頭の意味です。今日の桂林街から長沙灣辺りが埠頭となっており、
比較的水深が深かったので深水埗と言われる様になりました。
大戦後、この港は工業発展に寄与し紡織やアパレル関係の工商業の中心地となりました。
後に大陸の改革開放により深水埗の多くの工場が北に移っていき、この地区に多くの
空き家の工場や工場ビルが残ってしまいました。
古来から深水埗は九龍地区の重要な埠頭の一つです。香港島と九龍半島の往来が激しく
なってきたので、1924年に油麻地小輪会社が北河街と通州街の間に埠頭を建設し、
中環と深水埗のフェリーを運航しました。1950年には上環との航路も開かれました。
その後、海底トンネルが開通した為、香港島と九龍半島の水路は多大な影響を受けました。
1992年、油麻地小輪会社は中環と油麻地とのフェリーを中止し、一年後には深水埗埠頭も閉鎖されました。
深水埗には古跡がたくさんあります。その中の李鄭屋古墓は歴史上もっとも古いものです。
1955年8月9日、マンションを建てるために東京街の北側を掘削していた所、一個の空洞となった古墓が発見されました。墓の形、書かれた文字、出土文物からこの墓は東漢時代(25年~220年頃)と推定されました。この墓は十字形をしており、前・後・右・左の4か所に墓室があり、現在までに58件の文物、陶器、銅器なでが出土しています。
1988年に法定古跡と認定され永久保存されています。
近代古跡としては、深水埗軍営が有名です。この建物は1927年に建てられ、2個兵団の歩兵が駐留出来ます。日本軍に占領されていた時代には7千人もの英国軍人がここに禁固されていました。1979年、ベトナムの難民が大量に香港へ来た時には、ここが難民収容所となりました。
難民が国に帰った後、改築されて西九龍中心・麗閣村・麗安村及び深水埗公園となりました。
深水埗公園の中には、当時を記念して2つの記念碑が建てられています。
今まで書いた『深水埗』の記事をいくつかピックアップしました。
hongkongkisaragi.hatenablog.com
hongkongkisaragi.hatenablog.com
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この傘は今だ未使用。
さて、いつから使うかなぁー!?
勿体なくてね~(汗)
hongkongkisaragi.hatenablog.com
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まだまだ記事はあります。
最後に大好きな騎樓の記事を5つありますが、ひとつあげます。
hongkongkisaragi.hatenablog.com
手芸関係のストリート行きたい。
香港柄の生地を探したい。
中秋節は終わってしまいましたが、ランタンなどが飾られているおもちゃ街にも足を踏み入れたいな。
色んな顔を持っている『深水埗』
このような記事を書いていると香港へ飛んで行きたくなります!
香港へはいつ行けるのかしら!?